是成会概要

法人名
医療法人 是成会
代表者名
理事長 久保元敏
所在地
愛媛県今治市内堀一丁目1-19
設立年月日
平成7年5月15日
従業員数
85人(令和元年7月現在)

沿革

昭和30年9月
今治市波方町(当時の越智郡波方町)に久保内科として診療所を設立
昭和44年12月
久保内科診療所を新築開設
昭和61年9月
病床数を39床とし久保内科病院を設立
平成7年7月
医療法人是成会へ改組 消化器科久保病院開設
平成18年8月
今治市内堀へ移転
平成22年10月
居宅介護支援事業所 ケアプランセンターくぼを開設
平成25年6月
サービス付き高齢者向け住宅しまなみ、ヘルパーステーションくぼを開設
平成30年4月
定期巡回・随時対応型訪問介護看護サービス 定期巡回くぼを開設

父 是一 を懐う


平成7年3月21日
長男 久保 元敏


わたしの記憶では昭和25年頃から福岡県飯塚市近郊(飯塚市と直方市のほぼ中間)の炭坑の村である勢田という所の村立診の院長として赴任し、友人を集めては家で酒盛りをしていたように想う。 というのはある日とっぷり日が暮れてから当時4才の私に近所の雑貨屋までおそらくサントリーの角瓶と思うが、その空き瓶を持たされて酒を買いに行かされた記憶がある。
しかし金を払った記憶はない。 その時母は恐らく酒の肴を作っていたためにわたしが使いに出されたように思う。

つぎの赴任地は昭和26年から山口県の錦帯橋で有名な岩国市のそばを流れる錦川の上流の 河山村の村立病院である。 最初は石炭の炭坑、次は銅山であり、炭坑が好きだったのではないかと思われるかも知れないが、どうもそうではなかったようである。 この地での父の趣味は冬は祖父から送られてきた愛犬のトチをつれて日曜毎に散弾銃を持ち山中に山鳥・雉を追い求め、夏は鮎の友釣りで病院の勤務が終るや否や錦川の瀬のなかに滑り止めの為のわらじをはき、上は麦藁帽と半袖のシャツにフンドシという正装で立ち尽くしていた。
フンドシといえば昭和30年当時小学校一年生になった妹が、学校の帰りに病院と官舎になっていた自宅とのあいだの広い田圃の中から宝籤をも思わせる確率で一本のフンドシを持ち帰った。
当時妹は 絶対に父のものだと信じて疑わなかったそうで、恥ずかしいやら汚いやらでそっと上履き袋の 中に仕舞い込んだとのこと。 帰宅針の父がズボンの裾から歩きながら一本流し出したもの と考えられる。 前夜父が風呂はいる時にズボンの下にフンドシがなく両親の間で確執があったかどうかについてはわたしは知らないが、父の無実を明らかにしたと共に鈍感さをも証明するものでもある。
昭和30年一学期が終った夏休みわたしは当時小学4年生であったが、父が2日間いなかったことを覚えている。
父が帰えってきたその翌日に母から今度四国に転居することになったと伝えられた。 学友に別れの挨拶をする間もなく夏休み中に転居することになった。 今治市近郊の越智郡波方村で父は開業することになった。
今治市には父の悪友 (否、成)である真鍋 先生がいらしゃったのです。 父を呼んだのは真鍋先生でそれに即座に呼応したのは父であるが、どうもわたしの推測では呼び寄せたその餌は開業する場所 のすぐ裏10mがなんと海である。
そうです。
父の趣味は何と言っても釣りで、しかも余りしたことのない海釣りが出来るのですから、餌にしゃぶり付くのは無理もないと考えます。 真鍋先生はさすがに最高の餌を鼻先にぶら下げたことになります。 それからは釣り舟を購入 し、日曜毎に船を出していました。 日曜日に急患がでた時は無線のない時代でしたから海の上を近所の釣り仲間や漁師の方達が父を捜し求めて船で捜索することもだびたびでした。後に今治市に移って開業したときは病院のナースステーションに無線基地を置く程の熱のいれ様でした。 ところがこの二人が結託して当時博多に住んでおられた田川宏先生を、どうもむりやり今治市に引っ張り込み田川先生は今治市内の病院に勤務されることになりました。
わたしの推測では三人で学生時代そのままの悪行の限りを尽くしたのではないかと思われる節があります。
ところがこのような父でしたが、ある時期を境(昭和43年母が胃癌で手術)に学問に執着を見せるようになった様です。
開業地である波方町に1933(昭和8年)~1935(昭和10年)頃に発生した集団砒素中毒症は1962(昭和37年)に今村・尾高ならびに1982(昭和57年) 三木等と共に父は波方Bowen病のfollow upに精力を費やし今村等の23例から1993年の父のまとめでは55例に増加しています。 前癌状態と言われるBowen病は55例中皮膚癌は16例、肺癌は13例でそのうち早期肺癌は3例でありました。 毎月Bowen病の患者の胸部X線写真を撮り続け、早期肺癌を見逃すまいと前回のものと綿密に比較検討を続けていていました。 俺が死んだらお前がこの仕事を引き継いでくれというのが口癖でした。 呼吸器疾患に異常と思われるまでの執着を示した事は72才で最後の診察となってしまった平成6年12月27日に自分が発熱しているのに早期肺癌の疑い の症例に気管支ファイバーを施行している事でもわかります。
また母の胃癌(Borrma nnII)を発見し、我々子供三人に母はもう長く生きる事は出来ないだろうと涙ながら諭し たが、その母は現在も健在です。 母に本当の病名を告げる事なく逝ってしまいましたが、その影響もあってか消化器疾患にも情熱を注いでいました。
愛媛県内の肺癌研究会や胃腸疾患 研究会には最後まで皆勤賞が貰える程出席していました。 また平成4年に今治市・越智郡地区の原爆被害者の会をつくり、その会長となり精力的に活動していました。

ロゴのコンセプト

「すべての方に対し身内と考えて接します」という法人理念より患者さん・利用者さん・ご家族さん、一緒に仕事をするスタッフまたお取引いただいている業者さんのことを考え、やさしくやわらかなイメージを表現しています。
KUBOのKをデフォルトし、グリーンは自然、ブルーは空を表し、医療法人是成会は自然と共生し、患者・利用者さんや環境にも配慮した法人であるというメッセージマークとしました。